おじさん的不感症の考察

くそじじい。

それが悪口にならない歳になった。別名 おっさん。顔はシミだらけ、お腹ぽっこり。はたから見れば正真正銘、文句なしのおっさんだ。それでも少年の心は失わないと思っていたが最近そうでもなくなった。

大きな心の変化。「恥ずかしい」という気持ちが無くなっている。職場でよく感じる。知らないことを聞く、失敗する、大勢の前で発言する、周りとの違いで注目が集まることに平気になった。上手にやろうなんて色気がすり減った感じだ。そんなことはすっかりどうでも良くなってしまったのだ。

この記事はおっさんによるおっさんのためのデリカシー喪失の考察。

あきらめでは無い。優先順位の問題。体裁以上に大切なものがある。家族だ。そう思って疑わなかった。だが、はて、独身の同期も最近ふてぶてしい。

デリカシーの減少は家族と切り離して考えるべきかもしれない。フテコイ独身同期との共通項は年齢だ。加齢による脳細胞の劣化が感受性を鈍らせ、周りに気が配れない悲しき生き物を生み出しているのかもしれない。この仮説はなんだか説得力がある。

さらに原因探索を外部に拡張する。デリカシーを失えと社会から要請を受けている説を考える。社会はしばし任意の属性に損な役割を押し付ける。女性に家事を強いた構図だ。多数が利益を得る状態、いわば社会的効率性の強化を社会は求める。おじさん達のデリカシー卒業も社会に求められ遂行しているのかも。突拍子もない理屈だ。検証が必要だ。

海外の社会と比較。この世界のどこかに繊細なおっさんばかり生息する地域があれば上記の仮説の補強になる。

自主的な変態か外圧による変貌か。今後とも考察を続けたい。

ふてこくなったプロセスを知ることは自分探しなんだから、私はまだまだ若いと今日のところはしておこう。

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